斉明天皇とは

はじめ高向王たかむくのおおきみ(用明天皇の孫)とご結婚されて、漢皇子あやのみこをお産みになりました。

後に舒明天皇2年1月12日(630年3月1日)、37歳で舒明天皇の皇后に立てられます。

舒明天皇との間に、中大兄皇子なかのおおえのおうじ(のちの天智天皇)・間人皇女はしひとのひめみこ(孝徳天皇の皇后)・大海人皇子おおあまのみこ(のちの天武天皇)がお産まれになりました。

舒明天皇13年10月9日(641年11月17日)、 舒明天皇が崩御されます。

皇后は48歳でした。

舒明天皇の後、継嗣となる皇子が定まらなかったので、皇極天皇元年(642年)1月15日、皇極天皇として即位されました。

49歳でありました。

『日本書紀』によれば、天皇は古の道に従って政を行ないました。

在位中は、蘇我蝦夷そがのえみしが大臣として重んじられ、その子・入鹿いるかが自ら国政を執りました。

皇極天皇元年7月25日(8月25日)、蘇我蝦夷が雨乞いのため大乗経典を転読させましたが、微雨のみで効果がなかったため29日に止めてしまいます。

8月1日(8月31日)、天皇が南淵の河上にて跪き四方を拝み、天に祈ると雷が鳴って大雨が降り始めました。

雨は五日間降り続いたと伝えられています。

このことを民衆が称えて「至徳まします天皇」と呼びました。

孝徳天皇の崩御後、斉明天皇元年(655年)1月3日、62歳のとき、飛鳥板蓋宮で再び皇位に即きました。

史上初の重祚ちょうそと言われています。

在位5年(660年)に百済が唐と新羅によって滅ぼされます。

百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、日本に滞在していた百済王子豊璋を百済に送りました。

百済を助けるため、難波にうつって武器と船舶を作らせ、更に瀬戸内海を西に渡り、筑紫の朝倉宮に遷幸せんこうし戦争に備えました。

しかしながら、遠征の軍が発する前の661年、筑紫にて崩御されました。

斉明天皇の崩御、悲しみに暮れる
瀬戸の黄昏

額田王とは

額田王(ぬかたのおおきみ、ぬかたのきみ)は、飛鳥時代の日本の皇族で歌人、生没年は不詳です。

『万葉集』には長歌3首、短歌9首が載っています。

『熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかないぬ 今は漕ぎ出でな』

この歌は、斉明天皇の船団が、新羅の侵攻から百済を救援するため、筑紫に向かう途中、伊豫の湯に立ち寄り、暫く滞在し、船団を整え出発する時の歌であろうとされています。

額田王が天皇に代わって詠んだ歌といわれ、また、女帝自身の御歌とも言われています。

現代訳すれば、「にきたつで船出をしようと月の出を待っていると潮も都合のよい高潮になって来た。さあでかけよう」という意味で、愛媛縣護國神社にはこの歌を刻んだ歌碑があります。